「発達障害児の親あるある」①新興宗教に勧誘される

 「あるある」と題したのですが、いろんな方から集めた話を集約するのではなく、妻とぼくの体験から、「他の方も経験していそう」と思ったものをテキトーに抜粋していくつもりです。

 「障害者の親あるある」としなかったのは、障害者といっても「身体」「知的(発達)」「精神」と種別によって親(保護者)が体験する内容はかなり異なっているでしょうし、障害の当事者が乳幼児、就学後、成人後というライフステージによっても異なると思われますので、「発達障害児の親」という限定付きにしました。

 さらに、「知的(発達)」といっても、重度知的障害か軽度知的障害か、重度自閉症か軽度自閉症か、ADHDやLDの傾向の有無、睡眠障害や行動障害の有無、「身体」「精神」との重複はあるかーなどなど、傾向は当事者によって千差万別でして、親の「あるある」という形に一般化するのは少々乱暴であるのは承知しておりますが、こういう細かいことばかり言っていると「障害児の親は面倒そうだから関わりたくない」と思われかねませんので、ざっくりといきます。

 乙武洋匡さんの「障害は不便です。でも、不幸ではありません」という有名な言葉があります。乙武さんがこの表現を使い、この表現が多くの人に強烈なインパクトを与えたのは、「障害者=不幸(かわいそう)な人」という「常識」が根強かったからだと思います。

 乙武さんが「五体不満足」を出版した1998年当時と比べると、障害者、とりわけ発達障害をめぐる社会の理解は比較にならないぐらい進んでいるでしょうし、発達障害児の親としては、非常にありがたいことです。

 ぼくは障害当事者ではありませんので、想像するしかないのですが、「障害は不便です。でも、不幸ではありません」というのは、「そうだろうな」と思います。

 しかし、そんな社会の進歩とは全く関係なく、子どもに障害があることを知って声を掛けてきた新興宗教の信者は、「障害者=不幸(かわいそう)な人」という自らの考えを全く疑うことなく、わが妻にぐいぐいと迫ってきました。

 平成も終盤に差しかかった頃です。団体名を挙げるといろいろと面倒なことに巻き込まれる恐れがあるので控えますが、地方都市の駅前でビラを配っているのをご覧になったことがある方は多いと思います。ここでは、仮に「K会」とします。

 勧誘してきた女性の一人は以前からぼくも妻も顔見知りでしたが、K会の信者であることは知りませんでした。どこかから「●●さん(私たちの苗字)の息子さん、障害者なんだって」と聞いてきたのでしょう。その女性から妻に連絡があり、休日の昼に地元資本のファミレスで会うことになりました。

 共通の知人ではありますが、今回は妻と二人で「女子会」みたいな感じでランチするのかなと思い、ぼくはその場に加わらず、妻は息子を連れて店に入って行きました。

 そして2時間後、妻と息子を迎えに車でファミレスまで行くと、知人だけでなく、えらく愛想のいい見知らぬ女性も一緒にいたのです。
 「化粧品や健康食品のマルチビジネスか新興宗教の勧誘だな」とピンときました。そういうのってだいたい、女性2人一組ですものね。

 妻も、知らない女性が同席しているのを見た瞬間に、「ただのランチではないな」と察知したそうです。その予想通り、最近の生活や子育てに関する雑談から息子の障害の話に移り、本題の宗教の勧誘に入っていったそうです。

 要約すると、この2人の女性は苦労続きの人生だったけれど、入信したら迷いがなくなって今はとても幸せなのだそうです。彼女たちが言っていたことを要約すると、こうなります。

  1. 私たちは不幸だったが、入信して救われた
  2. 障害児を育てているあなた(妻)は不幸だ
  3. あなたの不幸に、うちの新興宗教は効くわよ。どう?(瞳キラキラ)

 このお2人が入信して救われた(と思っている)のであれば、それはそれで非常にハッピーなことです。でも、ごめんね、そのハッピーの「おすそ分け」はいらんのですわ。
 2人は「入信すれば苦しみがなくなる」と繰り返したのに対し、妻は「私は苦しみ続ける人生でいいと思っています」と切り返し、断ったそうです。立派です。

 それでも、相手は食い下がってきました。

また会ってお話がしたいです

必要になったら、こちらからご連絡しますので…

あなたは必ず、いずれ私たちのところに来ます!

ぜったい行かねーよ!(心の声)

 いつまでも乗ってこない妻に業を煮やしたのでしょう、向こうの最後の言葉は「捨てゼリフ」のようだったそうです。

 これはぼくも妻も同じ認識ですが、障害がある子どもを育てるのは非常に苦労が多いですし、子どもの将来を考えると不安だらけではありますが、自らが不幸な境遇だと一度も思ったことはありません。
 そもそも、健常児(障害がない子ども)を育てるのだっていろいろと苦労は多いのでしょう、たぶん。

 それに、先のお2人は障害がある子どもを育てていなくても入信前に相当不幸を感じていたわけですから、わたしどもに関わることなく、それぞれに気を緩めることなく引き続きご自愛いただければ幸いであります。

 障害児を育てている親を新興宗教に勧誘する信者はきっと、「いい人」なのでしょう。少なくとも、このお二人は「いい人に違いない」と感じました。

 ぼくと妻を不幸だと勝手に決めつける点は腹立たしくもありますが、「自分が救われたから、あなたも救いたい」という素朴な親切心が根底にあるのでしょう。

 でも、それだけではないことは容易に想像がつきます。

 ぼくは直接勧誘されたことはないのですが、そんな機会があれば「入信者を増やせば団体内での地位が上がるのですか?」「ノルマはあるの?」「信者獲得強化月間とかある?」「入信してから友達減ったんじゃない?」「教団内でセクハラやパワハラは受けていない?」「会費高くない?」「教祖、最近老けたんじゃね?」などと質問しようと思っています。

 その上で、「ぼくのことを心配しないでいいから、あなたたちは頑張って生きてください」と激励するつもりです。

 わが家で「障害児の子育て」に関する悩みが出てくれば専門の方々にご相談させていただきますので、宗教家の皆さまにおかれましては、こんなわたしどもを生暖かく見守っていただければ幸いです。

 別の観点から最後に一点。K会から勧誘を受けた頃はまだ息子が小さく(3歳ぐらい)、ABA(応用行動分析)による療育を始めたばかりでしたので、同じ場所に居続けるのは数分が限界だったのです。

 このランチに当たり、妻は息子の好きなお菓子やおもちゃ、絵本、iPad、いろいろな物を持っていき、「このおもちゃに飽きたら、このお菓子、その後はこの絵本…」などと、どのようにしたら息子が長時間同じ場所にいることができるかを考え抜き、事前に脳内でシミュレーションし、それを実践したはずです。

 久々に会う知人とゆっくり楽しく会話ができると思って、妻は念入りに準備をして臨んだのに、結局は家族丸ごと「不幸」認定された上での宗教勧誘だったわけです。この「とほほ感」は相当なものです。

 楽しいはずの休日の昼をそんなふうに過ごさざるを得なかった妻と息子とぼくは確かにその時、不幸だったかもしれません。

 宗教ないし宗教家が、「福祉」という言葉が誕生するずっと前から、弱き者、貧しき者、病める者に手を差し伸べ、貴重な役割を果たしてきたことは知っています。そして、宗教にハマっている人の中には、いろんな「苦労」を経験し、その経験ゆえに他人の痛みに共感する能力が高い方が多いのかもしれません。
 信仰や思想・信条がどうあろうとも、「障害者に優しくしてくれる方」がこの世に一人でも多くいらっしゃるのは、ありがたいことです。「障害者は社会の役に立たないから死ね」などとネットに匿名で書き込んでいる人たちとは、比べるべくもありません。
 であるからこそ、新興宗教の勧誘をされる方は「現世利益がハンパない」「とにかく救われるんです」ということを繰り返すのではなく、思慮深さや心の余裕、平穏さを相手にさりげなく示すアプローチをした方が、目的を達する上で早道ではないでしょうか。
 そうすれば、「入信することはありませんが、あなたの信じる宗教が立派で尊敬に値するものであることは分かりました」という認識には至ると思うんです。その新興宗教の「ブランド価値」も上がるはずです、きっと。ぼくがこんな助言をするのはおかしいのですが。

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