初公判で自分の指を噛みちぎろうとし、「自分には責任能力がある」と胸を張り、社会的な死を迎えた「ありがちな若者U」〜相模原障害者殺傷事件014

相模原事件の初公判が横浜地裁で行われたのは2020年1月8日、事件発生から約3年5カ月後でした。

 19人を殺害し、24人に重軽傷を負わせた重大事件であり、責任能力の有無が訴訟の唯一の争点となりました。これだけの凶行ですから、弁護側もさすがに情状酌量を求める手は使えなかったのでしょう

 そして、最終的に「犯行時の被告人は完全責任能力を有していた」(判決文より)と認められました。

あえて僕らが教訓的なことを引き出そうとするなら、被告はそんなにオリジナリティのある人ではないと思うんです。社会のいろんなところからネタを拾い集めて、あの考えをつくっている。だから世の中でそういう材料が転がっているということが問題です。

「開けられたパンドラの箱〜やまゆり園障害者殺傷事件」(月刊「創」編集部編、創出版)P226より引用

 精神科医の松本俊彦さんの論考です(太字は筆者)。

 被告(当時=以下略)は、「人間であることの条件」として①自己認識ができる②複合感情を理解できる③他人と共有することができるーであると考え、これに該当しない重度障害者は「殺しても構わない」という考えに至ったとしています。

 この理屈から自らの犯行を正当化し、「世の中に役立つことをやった」などと法廷で得意げに語っていたわけです。

じつはこれは、映画「テッド2」のパクリであったことが、検察側の証人となった交際相手の証言から明らかになりました。植松被告の家で一緒に「テッド2」のDVDを観ている時、「これだ!俺が言いたかったのは」と目をキラキラさせて彼女の方をポンと叩いたという。

「パンドラの箱は閉じられたのか〜相模原障害者殺傷事件は終わっていない」(月刊「創」編集部編、創出版)P167より引用

 ネタ元は映画だったわけです。

 もう一つ、別の映画からのパクリも「発覚」しています。

 初公判で被告は、証言台から退席するよう求められた直後、「みなさまに、お詫び申し上げます」と声を張り上げ、指を噛み切ろうとしました。

 この時は刑務官に取り押さえられて未遂に終わりましたが、翌朝に拘置所で小指を第一関節から噛みちぎったといいます。

Uの友人によると、あれは映画「アウトレイジ・ビヨンド」で中野英雄が演じるヤクザが、組幹部の前で指を噛み切って黙らせるシーンがあって、Uが「いやー、気合い入ってるわ」とやたら感動していたらしいんです。面会時にそれを言うと、痛いところをつかれた表情で、「わざわざ言うことではない」と言っていたので、図星だったのでしょう。

 「相模原事件をめぐって 残された大きな課題」を題した対談で、ノンフィクションライターの渡辺一史さんが発言した部分です。

 読んだ時に、不覚にも笑ってしまいました。さすがノンフィクションライター。いいところを突きます。

 「お前の考えは間違っている!」と感情をあらわに怒鳴りつけても全くダメージを受けないでしょうが、これはクリーンヒットです。

 彼も「アウトレイジ・ビヨンド」を観たのか。確かにあのシーンは迫力があってインパクトがあったけれど、「気合入ってるわ」と感動する人は少数でしょうし、真似しようする人はほぼゼロではないでしょうか。

 第一、自分で自分の指を噛みちぎるって、どういう精神状態になればできるのか。

 初公判は彼のこの自傷行為で一旦中断し、その後に被告不在のまま検察・弁護人双方が冒頭陳述を行いました。

 その場で弁護側は「(大麻精神病による)精神疾患が今回の犯行に影響を与えたことは間違いなく、善悪の判断や自身をコントロールする能力がなかったことを、今後、立証していきます」と宣言しました。

 しかしその後、被告本人が「自分は責任能力はあった」と主張し、チグハグな展開となってしまいます。

 Uが語っていたような弱者・障害者差別的な言説はネット内に溢れています。しかし、だからといって「実力行使」する人はほとんどいないはずです。

 映画で指を噛みちぎるシーンを観て感動したからといって実行しないのと同じで。

 精神疾患というより「(悪い意味で)やたらと実行力がある、歯止めがきかない人」なのかもしれません。大麻の常用がそうした特性を強化していたとも考えられます。

 Uは小2の時、「戦争をするなら障害者に爆弾を付けて突っ込ませたらいい。戦争に行く人が減るし、家族にとってもいいアイデアだと思った」という内容の作文を書き、学校に提出したことが公判で明らかになっています。

 ぼくは、先の映画パクリと同様、この作文にも「元ネタ」があったのではないかと推測しています。

 本人としては、障害者への差別というより、「面白いことが思い付いたから聞いてほしい」という程度の認識だったのではないでしょうか。

彼は、小学校2年次に持っていた差別意識を、その後社会で矯正する機会があったとしても手放すどころか、むしろ深めてしまった。そして、(やまゆり)園の利用者と接するなかで増幅させてしまったのだ。

「元職員による徹底検証 相模原障害者殺傷事件 裁判の記録・被告との対話・関係者の証言」(西角純志著、明石書店)P274より引用

 考えの浅さや軽さは、小2の頃から成長していないのかもしれません。

 弁護団の控訴を自ら取り下げ、確定死刑囚となったUはもう家族や弁護士以外との接見は基本的にできず、「社会的に死を迎えた」状態にあります。

 世間的には、この事件はもう忘れ去られ、風化してしまっているのでしょう。

 死刑執行の際に報道されるでしょうが、多くの人々は「そんな事件があったな」と思い出す程度で、すぐに記憶から消えることでしょう。

 社会の多くを占め、社会を動かす中核となっている大多数の健常者にとっては、健常者にとって遠い世界にいる「精神障害者」が加害者で、これまた遠い世界にいる「重度知的障害者」が被害者となった事件ーという認識にとどまっているのではないかと思われます。

 さらに、事件の現場となった「大規模施設」も遠い世界にあって、実態を知る人はほとんどいないでしょう。

 重度自閉症・中度知的障害がある息子を育てていて、このサイトを運営しているわれわれ夫婦ですら、成人した重度障害者が暮らす大規模施設の実態は全く知りませんでした。

 息子が支援校高等部に入るぐらいになったら情報を集めなきゃいけないかも、見学に行った方がいいかなーという程度の認識でした。

 身内に重度障害児(者)がいない方であれば、「やまゆり園」のような大規模施設について関心を抱くきっかけすらないのではないでしょうか。

あの事件が起きたあと何が変わったかというと、一番思ったのは何も変わっていないということかなと思います。
変わったことと言えば、重度障害者と言う人たちが集まる施設があって、そこに障害者がたくさんいるんだということが世の中にちょっと知られたということですね。

でも障害者の命の価値を考える機会にはなっていないし、被告が本当に狂った人で、あんな危ない人を野放しにしておけないから、精神科病院や刑務所に早く入れてほしいと思う人が多いんでしょうね。
危ない人、よく分からない怖い人をどこかに隔離しておいてほしいというのは、重度障害者の人は接し方もわからないし、ケアも大変なので施設に入れておいてほしい、という考え方とまったく一緒なんです。

「開けられたパンドラの箱〜やまゆり園障害者殺傷事件」(月刊「創」編集部編、創出版)P136〜137より引用

 事件発生から数カ月後、重度障害がある人工呼吸器ユーザーの海老原宏美さんが、月刊「創」編集部のインタビューに対して答えたものです。

 事件に関してこれまで十数冊の本を読みましたが、海老原さんのこの発言が一番心に残りました。冷静な分析であり、鋭い指摘です。

 「よく分からない人は隔離」って短絡的な発想こそ、あらゆる差別の根元なのだと思います。

 この事件において被害者家族に近い立場にあるぼくは、この死刑囚Uが「狂ったモンスター」でないことはよく分かりました。

 外見は地方都市が似合うマイルドヤンキー的な感じで、中身はネットでよく見かけるタイプの陰キャであることも分かりました。

 「オリジナリティのない人」だという指摘がありましたが、まさにその通りで、ぼくや世の中の多くの人々と同様、「特別な・特殊な人」ではないのです。

 ただ、ものすごく悪い意味で「実行力」があったのです。

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