「全員がすでに障害者になっている」という問い掛けをどう受け止めるか〜やまゆり園障害者殺傷事件より006
新潟市中央区で先月、被害者の父親でやまゆり園家族会前会長の尾野剛志さんをお招きした「津久井やまゆり園障害者殺傷事件を考え続ける学習会」があり、会員の方々とご一緒させていただきました。
5年以上も遅れて事件について学び始めたぼくに参加の機会を与えてくださり、感謝しております。学習会については、先日書きました。
事件を風化させてはいけないという関係者や当事者、支援者、専門家の皆さまのおかげでいろいろなことを学ぶことができ、視野がほんの少し広がってきたことを実感しています。
これまで読んだ本から、脳性麻痺の当事者で小児科医、東大先端科学技術研究センター准教授(肩書は書籍発行時)の熊谷晋一郎さんの言葉を引用します(改行、太字、蛍光マーカーは筆者)。
障害の社会モデルに基づけば、「社会のデザインとミスマッチを起こしている度合いが強い人を『障害者』と呼ぶ」と東京大准教授の熊谷は指摘する。
「やまゆり園事件」(神奈川新聞取材班、幻冬社)P221より引用
「いま、多くの人が潜在的に生きづらかったり、将来に不安を抱いたりしている。全員がすでに障害者になっているといっても言い過ぎではない。それは社会が包摂力を失っているからです」。
ここまで大きく社会が変化すると、急速にそれとミスマッチを起こす人たちが生まれてくる。その人たちは、身体的な障害がなかったとしても、社会モデル上は障害者と呼べるのではないか。
「この国の不寛容の果てに〜相模原事件と私たちの時代」(雨宮処凛編著、大月書店)P103~104より引用
その人たちというのは、言い換えれば社会から「不要とされた」人々ということです。
「障害者」という単語を使った「言葉遊び」「学者の思考実験」と感じられる方もおられるかもしれませんが、ぼくは「ものすごく本質的で鋭い指摘」であると受け止めました。
「障害の社会モデル」という言葉をこれらの本で初めて知りました。
今読んでいる「よくわかる社会福祉」(小澤温編、ミネルヴァ書店)では、「社会モデル」を「障害を主として社会によって作り出された問題とみなす障害のとらえ方」と定義しています。
この「社会モデル」という考え方を自分なりの理解で説明すると、例えば人間全員が「耳が聞こえない」のであれば耳が聞こえないことを前提に人間社会が構築されているでしょうから、耳が聞こえないことは障害とみなされないーということになるのでしょう。
また、最近流行りの「なろう小説」的にいえば、転生した世界にいる人類がみんな体に羽が生えていて空を飛べるとしたら、前世の身体のまま転生した主人公は「障害者」ということになります。
事件に関する本を読んでいると、この死刑囚が、熊谷准教授が言うところの「社会のデザインとミスマッチを起こしている度合いが強い人」であったことがよく分かります。
ただ、当たり前ですが、「社会のデザインとミスマッチを起こしている度合いが強い人」は彼に限りません。
いま日本で暮らす人で「潜在的に生きづらかったり、将来に不安を抱いたり」していないのは、一握りの成功者や「上級国民」だけでしょう。
であるなら、「障害の社会モデル」を当てはめれば、この死刑囚だけでなく、ぼくも、そして恐らく現在の日本で暮らす多くの人々も、「障害者」ということになります。
彼自身もひとりのマイノリティだったと思います。そういう人をモンスターのように見て社会から排除することは、むしろ問題を解決から遠ざけると思います。
「この国の不寛容の果てに〜相模原事件と私たちの時代」(雨宮処凛編著、大月書店)P148~149より引用
BuzzFeed Japanの記者・編集者(肩書は書籍発行時)の岩永直子さんが、著者の雨宮処凛さんとの対談で語ったものです。
その通りだと思います。
次回からは、歴史に残るとんでもない凶悪事件を起こしたこの死刑囚がいかに、ぼくも含めて社会に多くいる「凡庸でありふれたミスマッチ人間」だったかを書いていきます。
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