地域で暮らし続けるためにいま準備できることは~なぜ社労士になろうと思ったのか①

 前回の⓪とは別の観点から書いてみます。

 障害者、とりわけ知的障害者は「流動性に乏しい」と言われることがあります。

 生まれた街で親とずっと暮らし、親が転勤族(死語か?)で一緒に引っ越しを繰り返す方もおられるでしょうが、多くは生まれたまちでそのまま年を重ね、「ついのすみか」として決めた施設が遠方にあれば引っ越してそこで生涯を終えるーというケースが一般的なのではないでしょうか。

 わが息子に引き付けて考えてみても、自動車の運転免許を取る可能性はないでしょうし、もし取れたとしても、取るべきではないと思っています。移動は電車やバスといった公共交通機関、あるいは自転車に限られます。

 特に地方ですと、子どもの頃から地域の障害当事者(家族)のコミュニティーに属し、同じ顔触れの中で年を重ねていくことになります。支援する側の方々も顔見知り。変化に乏しく刺激が少ないといえばそうでしょうが、当事者が変化や刺激を自ら求めているかといえば微妙ですし、同じ場所に暮らし続けた方がQOLが高いのではないかと思われます。

 ぼくは十数年前、会社の転勤で今住んでいるこの街に赴任しました。

 転勤といっても、勤務する会社の本社(県庁所在地、政令市)から車で20~30分の近距離です。ぼくの実家がある県北部のまちと本社のちょうど中間にある市で、ぼくにとっては「実家から県庁所在地に行く途中にある、故郷よりは大きな市」という程度のイメージでした。

 その後は、本社に戻り、再び転勤し、その転勤先から本社に戻るタイミングで、妻が生まれ育ったこの市に居を構えました。できるならもう転勤はしたくない、ずっとここで暮らそう、と。息子が3歳4カ月、自閉症の診断名が付いて家庭療育を始めて1年ぐらい経ったころでした。

 このまちに定住するにあたり、妻とぼくは「息子のことをなるべく多くの人たちに知ってもらう」ことが最も重要だと考えました。

 重度の障害があって好奇の目にさらされるのは分かっているわけですので、むしろこちらから積極的に攻めていこう、と。

 転居した際には、息子の障害について説明したメモ書きをあいさつの品に添え、息子を連れてご近所を一軒一軒回りました。幼稚園は全市をエリアとする障害児向けのところでしたが、小学校は支援校ではなく、自宅近くの小学校(支援級)を目指しました。

 近所の子どもたちに息子の存在を知ってもらうためです。「幼稚園年長組が終わるまでに自力でトイレに行けるようになれば支援級、間に合わなければ支援校」と決め、家庭療育を重ねて何とか間に合わせました。息子もよく頑張った。

 町内会のイベントにはできる限り参加し、小学校のPTA役員を5年間勤めました。これらは、ぼくよりコミュ力がはるかに高い妻がやってくれました。

 依頼を受ける形で、市長選の応援演説をしたこともありました。これも妻がやったのですが、「障害児の親として、市にはお世話になって感謝している」という趣旨の話をしたようです。

 選挙、しかも地方の首長選挙は複雑な利害関係も絡むし、マイナスになるかなという心配もあったのですが、結果として、息子のことを多くの方々に知っていただく機会となりました。

 そんなふうに妻が地域とのつながりを深めていく中、ぼくは本社がある隣の県庁所在地に通勤する会社員のままで、地域とのつながりは希薄なままでした。

 ぼくは大学を卒業以来、ずっと同じ会社に勤務しています。拘束時間が長く激務ではあるもののやりがいがあり、それに見合った収入も得ることができ、とても幸せな職業人生を送っていたと思います。

 ただ、この業界全体が世界的にも「右肩下がり」で、先行きが不透明というか悲観的な壊滅的な観測が強まってきました。新たなマネタイズの手段が確立されておらず、もうできなそうにもみえます。かつての石炭産業のようなイメージです。

夕張市石炭博物館の展示物
写真=石炭採掘の様子。まだ会社に所属しているため何の業界かはここで触れませんでしたが、石炭産業という例えから「あっ(察し)」となるかもしれません=「夕張市石炭博物館」Webサイトより

 この業界、ぼくが60歳になるころまではギリギリ持つかもしれないけど、65歳まで定年延長するころまでは無理かもしれない。会社そのものは存続していたとしても、業態が大きく変わり、金銭面と労働条件は大きく後退してしまうことも考えられる。

 この業界がまだ存在するうちに、自力で「脱出」することも考えなければならないかもしれない。しかし、汎用性が高いスキルも専門性も身につけないままこのトシになったオッサンができる仕事はあるのか…😇

 ネット上では「全裸中年男性」という言葉が使われるようになりました。組織から守られていなければ何もできない、情けなく哀れなオッサンを表している、というふうに受け止めていました。

 そんなことを考えて悶々としている中、5年前、脳出血で入院し、社内で担当する業務も大きく変わりました。

 「残された時間は少ない。早く本気で準備に入らなければ」。尻に火が付いた格好です(②に続く)。

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