「異議あり!『奇跡の詩人』」を読み、ネットが普及していなかった時代のマスコミがいかに不誠実かつ傲慢だったかを再認識した
「異議あり!『奇跡の詩人』」(滝本太郎・石井謙一郎著、同時代社)という本を読んで思ったことを前回書きました。
今回は、NHKスペシャル「奇跡の詩人」が放映され、2カ月後にこの本が出版された頃のNHKの対応があまりに不誠実かつ傲慢だったことに触れようと思います。
ネット社会がこれだけ進展した今、同じような対応を取ったら炎上しまくるでしょうし、逃げ切れないでしょう。
騒動が持ち上がった当時の様子とNHKの対応は、この本の第1章「『奇跡の詩人』とその周辺ー『週刊文春』記者取材日記」にまとめられています。
一部を引用します(以下の引用部分の蛍光マーカーと太字と改行は筆者、「奇跡の詩人」とされるお子さんの名前は匿名にしました)。
「納得できない」という声のあまりの多さに、NHKは番組放送後にホームページで異例のコメントを出した。
「異議あり!『奇跡の詩人』」(滝本太郎・石井謙一郎著、同時代社)P23より
(1)文字盤は正確に指されているか(2)そうだとしてもお母さん自身が指しているのではないか、という二つの疑問のうち、一点目については、映像をスローモーションで再生し、間違いなく指していると確認できたという。
二点目は、母親の補助を受けなくとも言葉を作れること確かめていること、母親の知らないことをR君が話すケースを何度も確認しているとして、《お母さん自身が話している可能性はないと判断しました》とする。
検証の様子を報じなかったのは、「R君のもつ無限の可能性を紹介するのが番組の趣旨で、能力を科学的に検証することは意図していない」(NHK広報局)。
番組制作に関わっていない第三者(視聴者)からの疑義に対しての回答になっていません。
「教組・麻原彰晃の空中浮遊は本当か?」と問われたオウム真理教の広報担当もこんなふうに答えることが可能でしょう。
これ、要約すると、「(社会的信用が高い)オレたちが『確認した』と言っているだから素直に信じろ」ってことです。
そしてNHKは、番組の内容を検証しようとする人たちに対し、「恫喝めいた」警告文を送り付けています。
そしていま、番組を再検証するため、NHKの番組を見逃した人を中心に、録画ビデオをみる会が全国各地で行われているのである。
「異議あり!『奇跡の詩人』」(滝本太郎・石井謙一郎著、同時代社)P38より
大阪ではインターネットの掲示板「2ちゃんねる」の有志が集まって、五月二十八日に開かれる予定だった。ところが前日、主催者Aさんの元にNHKから「警告」と題する書面が届いた。
「録画ビデオの上映は著作権法違反だから中止せよ。止めなければ法的措置を取る」という内容だ。Aさんは警告に従い、当日はビデオの問題部分だけを流すにとどめた。
著作権などを挙げたNHKの主張にはもちろん、一定の理はあります。
法廷闘争などにおいて、こういう「隙のない防御と攻撃」は大事でしょう。
しかし現代の感覚からすると、外部からの疑念に真摯に答える姿勢が欠けている上に、「大マスコミ」としての権力で無理やり異論を圧殺しているように受け取られます。
この「NHK vs 週刊文春」の攻防が今繰り広げられたとしたら、ネット世論のほとんどが週刊文春サイドに付くでしょう。
NHKがどんなに「恫喝」を繰り返してGoogleに削除申請を繰り返そうとも、YouTubeへの動画アップは止むことなく、SNSで拡散しまくり、そんな様子をネットメディアが記事にし、それを読んだテレビのワイドショーや新聞が取り上げ、政治家や有名人がツイートし、そんな様子を専門家が「NHKはリスク管理を誤った」と題して記事化するとYahoo!ニュースのトップを飾り…と、こんな感じの「無限ループ」が止まらず、逃げきれないはずです。
強面で逃げを打ってきた当時のNHKも、さすがにマズいと思ったのか、そのうちこんな釈明をするようになったそうです。
「…番組は、脳障害児の能力を科学的に検証することを意図したものではなく、Rくんが発する感性豊かなメッセージを伝えることを意図したものであることから、R君と家族のそのままを放送することにしました」などと言う。
「異議あり!『奇跡の詩人』」(滝本太郎・石井謙一郎著、同時代社)P164より
そのうえで「説明が必ずしも十分でなかったことは認めざるをえません」と言うのである。
この物言いは、失言を批判されて発言の撤回と謝罪を求められた政治家が「お騒がせして申し訳ない」とコメントしてごまかすのと同じです。
自分の「失言」の「どこが悪かったのか」ということには触れず、「世間を騒がせた」という部分に限定して詫びるという、テクニカルなだけの誠意ゼロの謝罪方法です。
今これをやったら、ネット世論がすぐにツッコミを入れることでしょう。
この本には、「奇跡の詩人」騒動が持ち上がる前に、マスコミが有名にした「怪しそうな」ものにも触れています。
「奇跡」の当事者とされた者が、その後、何年も経ずして挫折せざるをえなくなったようなケースは多い。
「異議あり!『奇跡の詩人』」(滝本太郎・石井謙一郎著、同時代社)P156より
過去、スプーン曲げの少年がメディアでいいようにされ、後に辛い想いをしたことは多くの人が知っていよう。
が、それでも彼は健常者でありなんとか生きていくことはできた。
いたいた、スプーン曲げの少年。懐かしい。40代以上の方でないとピンと来ないかもしれませんが。
超能力や心霊写真、UFOなど、ぼくが子どもの頃の民放テレビはやりたい放題で、ぼくも夢中で観ていました。
今はああいう番組は無理でしょうねー。
私は「奇跡の詩人」を見て「またか」と思った。
「異議あり!『奇跡の詩人』」(滝本太郎・石井謙一郎著、同時代社)P192「特別寄稿・ 麻原彰晃が「空中浮遊した……」(有田芳生)」より
一九九三年二月、NHK教育テレビスペシャルが「人間はなぜ治るのか」という三回シリーズを放映したことを思い出したからだ。
末期ガン患者の自然治癒力がテーマだった。…。
第一回の報道で紹介された病院は実名だったのに、二回目は病院名がイニシャルで処理されていた。
さらに番組の最後には前回放送でなかったこんなテロップが流れた。
「具体的な病院や療法の良否を描こうとしたものではありません」
番組制作者の逃げである。…。私は『朝日ジャーナル』で霊感商法の批判記事を書いているときから、この病院の存在は知っていた。れっきとした統一協会系の病院である。
霊感商法の被害に関するテレビのニュースを子どもの頃に観たことは覚えていますいが、この騒動は知りませんした。
有田さんのご指摘通り「番組制作者の逃げ」であって、逃げ方がいかにも昔のマスコミらしく不誠実です。
こうした事例をたくさん経験している最中にY新聞に大きな記事が載りました。
「異議あり!『奇跡の詩人』」(滝本太郎・石井謙一郎著、同時代社)P176「特別寄稿・R君とドーマン法ーその閉ざされた世界(児玉和夫)」より
昭和六十三年のことで、「日本でドーマン法を実践して正常になった脳性麻痺の第一例」という内容でした。
私はこの記事に正直いって憤慨させられました。
正常になった第一例というのであれば、それまでよくなることを期待してアメリカにも渡り、多額のお金を使いながら日々苦労してきたご家族やお子さんは何だったのでしょうか?
「正常になった」とされるお子さんのご両親は、この新聞記事が出て間もなく、「奇跡のラブちゃんー脳性マヒからの驚異の回復」と題した本を出版したそうです。
大手メディアに取り上げられた直後に親が本を出版するというのは、「奇跡の詩人」騒動と一緒です。
ビジネスモデルとして確立されている手法なのでしょう。
しかし、さすがに新聞ではもう、この手の「民間療法で奇跡的に治った!」系の記事を見掛けることはなくなりました。
最近では、こちらの推移に注目しております。
以前もこちらで紹介させていただいた、米国在住で「Saltbox 自閉症&自由ブログ」を運営されているCheeさんのツイートです。
映画「ぼくが飛びはねる理由」が公開されたのを機に、FC(Facilitated Communication、ファシリティテッド・コミュニケーション=介助者〔Facilitator〕を経由して行うコミュニケーション)を持ち上げる報道をするマスメディアに対して情報提供する活動をされております。
Cheeさんのブログから引用します(改行、太字、蛍光マーカーは筆者)。
また各種報道機関は大変な責任があります。
Saltbox 自閉症&自由ブログ「No FCにご協力ください。」より
報道機関がFCを肯定的に報道することで、障害者を大変なリスクに晒していることを伝える必要があります。
特にNHKは過去に「奇跡の詩人」で議論になったり、現在もFCを使われる方に関する報道がよくありますので、皆様の声が届くことを願っております。
ブログによると、パラサポWEBというサイトに「『自閉症が治る薬が開発されたとしても、僕はこのままの自分を選ぶかもしれない』。世界が絶賛する作家東田直樹氏が語る自閉症の世界」と題する記事を日本財団パラリンピックサポートセンターが投稿していたのに対し、Cheeさんが問い合わせをしたところ、趣旨を理解して記事を削除したとのことです。
これに対して、Cheeさんが「残念な記事」として例に挙げた「毎日新聞医療プレミア」のインタビューは、現在(2021年6月17日)も掲載され続けています。
Cheeさんの指摘通り、報道機関には大きな責任があります。
過去の「不誠実で傲慢な」対応を現在の価値観で「上から」批判するのは少し気の毒ではありますが、そういう昔のマスコミがいろんないかがわしいものを「助長」してきたことを忘れない方がいいと思います。
それにしても、「奇跡の障害者」モノって、昔も今もそんなに需要があるのでしょうか?
ぼくは、息子に診断名が付く前も付いた後も、「奇跡の障害者」モノに魅力を感じたことがないのですが、それはぼくが共感性に乏しい冷たい人間だからなのでしょうか?
当事者家族としては興味深いテーマです。
分析していくと、いわゆる健常者が大部分を占める社会が、障害者の存在をどのように受け止めているのかが見えてくるのかもしれません。
また、一部の障害当事者と当事者家族にとって、「奇跡の障害者」の存在が「生きる希望」になっている側面があるのかもしれません。
また、続きを書きます。
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